福岡高等裁判所 昭和37年(ラ)4号 決定 1962年2月24日
抗告人 片山ムメ
主文
原審判を取り消す。
本件を福岡家庭裁判所に差し戻す。
理由
一、抗告の趣旨及び理由は別記のとおりである。
二、吉村恒夫、吉村順蔵、小池溜の各除籍謄本、片山徳太郎の戸籍謄本、鎌田芳助、志摩村長鎌田五郎の各証明書、原審における山内政五郎、鎌田五郎、片山久太、抗告人本人の各審問調書、原審及び当審における片山友吉の審問調書、本件審判申立調書の各記載をかれこれ総合すると、抗告人は夫片山徳太郎(昭和二十九年七月十日死亡)との間に長男、二男を出産したが、まだ名も命名しないうちにつぎつぎ死亡し、他に子供がなかつたところ、たまたま大正七年の夏頃、知人山内フサから、吉村順造と吉村マル夫婦の子恒夫(大正六年七月十五日生)を養子にしてはどうかとの話があり、志摩村地方では他人の子を養育すると自分の子もよく育つとの古くからのいい習わしがあり、また、恒夫の両親は大正七年四月二十五日離婚し、母マルは実家に復籍して実家に居住し、恒夫は父順蔵の許に養育されている不幸な境遇にあることへの同情などのことから、抗告人夫婦は恒夫を引きとつて養育している内、大正十二年三月十七日三男(戸籍簿の上では長男)久太が出生したが、恒夫は片山徳太郎夫婦を父、母と呼び、同人夫婦も恒夫を事実上の養子として遇し、大正十一年一月八日順蔵が、昭和六年十月十日マルが死亡していよいよ抗告人夫婦と恒夫とは自然事実上の養親子の間柄となり、養子縁組の届出をしようとしたが、恒夫は、順蔵生存中は吉村家の法定の推定家督相続人であり、吉田順蔵の死亡により戸主となつたので、旧民法の規定上吉村家を廃家するなどの法的手続を採らないかぎり、片山家に入ることができなかつたのであるが、田舎に居住していて、右の手続に不案内であるため、その法的手続のあることを知らず、従つてたやすくこの手続を採り得ない状況にあつたところから、せめて本籍だけでも片山家と同一になすべく、昭和十二年十月一日本籍を抗告人と同一の志摩村大字船越四二番地に転籍し、翌昭和十三年五月末日自宅を出発し、翌六月一日佐世保海兵団に入団するに当つては、抗告人らに対し養子として入籍するよう依頼し抗告人ら夫婦もこれを承諾した上、志摩村役場係員などについて相談したが要領を得ずにいた折柄吉村恒夫は昭和十七年二月頃以来数回片山友吉らを介し抗告人ら夫婦に対し、吉村家の廃家を前提とする養子縁組届出を委託したこと、ところが、吉村恒夫は昭和十九年十月二十九日大平洋戦争において戦死し、その戦死の公報は志摩村役場から同人の留守家族担当者父として片山徳太郎に伝達され、恒夫の葬式は徳太郎の養子として村葬により営まれたこと、その後前示の日片山徳太郎も死亡したことの各事実を認めることができる(しかして、養子たるべき者から養子縁組届出の委託を受けた養親たるべき者(夫婦)の一方が届出前死亡しても、届出委託確認の申立をなすことの妨げとなるものではない。)
ところで抗告人は昭和十三年六月一日恒夫は抗告人に対し前示養子縁組届出の委託をなした旨主張しているが、当時は「委託又ハ郵便ニ依ル戸籍届出ニ関スル法律」の施行前であるばかりでなく、抗告人の申立てんとするところを善解釈明すれば、前説明のとおり昭和十七年二月以降に養子縁組届出の委託を受けたことの確認を請求するものと見るのが相当であり、果して然りとすれば、昭和十三年六月一日の右の委託がないと判示して、抗告人の申立を却下した原審は不当で抗告は結局理由があるので、特別家事審判規則附則第三項、同規則第一条、家事審判規則第一九条を適用し主文のとおり決定する。
(裁判長判事 川井立夫 判事 秦亘 判事 高石博良)
抗告理由<省略>